デッサン表現(意識と行為によるとらえ方)
 デッサンは、人が紙の上に一本の線を引く行為から始まるとすると、一枚のデッサンは無数に引かれた線の集積であり、そのような行為を組織づけることでもある。また、一本の線を引くには、決断や逡巡、意識的・無意識的といった心の働きが伴っていて、一枚のデッサンは人の意識(心のありよう)の織物であるともいえる。
 白い紙の上にインクや木炭、あるいは鉛筆で生み出されたデッサンはそのような人間の意識と行為の痕跡であり、それはデッサンを見る人の感覚や精神を通して絶えず呼び覚まされ、生き続ける。人は、白い紙の上に横に引かれた一本の線を見て、それを水平線と考えれば、単なる一枚の紙のなかに海と空を生き生きと想像することすらできる。このようにデッサンは、人間の感覚や想像力の働き、そして経験に基づいた認識作用によって成り立つものであり、人間の豊かな創造性にかかわるものである。
 人は物を見てその印象を、きれい、大きい、丸い、ゴツゴツしているといったように言葉を使って表現し、他の人とその認識を共有することができる。デッサンもそのような物と人が存在する世界での、より直接的な認識の方法であり、伝達手段でもあるが、そこには言葉をはるかに越えた内容を有してもいる。人類は言葉だけではなく、このように広い意味でのデッサンを通して、物事を客観化し、客観化したものによって思考することを学んだ。
 言葉が国や民族によって異なるのに比べ、デッサンはそういった違いを越えて理解できる共通姓を有するが、同時に、感覚や意識も環境や制度的なものに作用されるものであり、地域性や歴史的な変化の中でその在り方は多様である。

 デッサンは線の芸術とも呼ばれ、線が重要な働きをする。線には記録の直接性といった面があり、先ず線によって物の形を表したり、空間を暗示したりする。例えば、リンゴを見てその形の輪郭を線で描けば、線で囲われた内側はリンゴであり、外側はそれを取り巻く空間として感じとることができる。また、物を立体的に見せる手段としては明暗法が用いられる。物体(例えばリンゴ)に光りがあたると陰影ができるが、その光と影の明るさや暗さを画面の上に再現することにより、物(リンゴ)の立体感や質感を出すことができる。このような線の働きや明暗法を駆使し、さらに透視画法などの遠近法を発達させることによって、私達の目の前にある3次元世界を2次元の平面の上に再現的に表現できるようになった。
 デッサンは、単に物の形をなぞることではなく、人間の持つ感覚的な部分と知的な部分を通して行う総合的創造作用である。対象(例えばリンゴ)は目に映る形や色だけでなく、重さや、美味しそうといった、経験を通して認識された物としても感じられ、そこに何らかの人間的感情を抱いたりもする。また、物は空間と時間の中に存在して刻々と変化し、光と影も無限の表情を見せる。
 デッサンすることは、このような対象の存在を、全感覚を働かせながら受容し、画面の上に分析を通して、構図や構成、遠近法、形の美しさなどを考えながら描くことである。 このようにデッサンに於ける表現は、人間の意識や認識に支えられた知的行為でもあるが、同時に、線を引くことや、明暗を現すために行なう、押さえたり、こすったり、たたいたり、引っ掻いたり、拭き取ったりといった身体的な行為にも基づいている。そこでは、意識的なコントロールと無意識的な偶発性が共に働き、強弱や緩急、濃淡や振るえといった表れを通して、再現的な形によらずとも、線そのものが、また、明暗の調子やマチエール自体が見る人の感覚に直接に訴え、何らかの感情を呼び覚ましたりもする。
 完成された絵画や彫刻とは違い、デッサンはより直接的に作者の感性や身体性を示す、いわば生身の芸術ともいえるが、修練を必要とする複雑なものから、より直感的で簡潔なものまでその表現は幅広い。

 デッサンでは描画材料として、鉛筆、木炭、コンテ、クレパス、インク、墨、絵具等を用いる。また、支持体として、紙、キャンバス、木板、金属板、布等。そして、ペン、筆、消しゴム、食パン、布等の描画道具が使われる。これらの描画材料や支持体、また、道具の使い方によって、表れる効果もさまざまであり、その在り方は無限である。描く経験に従って、材料や道具の適切な取り扱いができ、その効果をコントロールすることで表現が強化される一方、偶発的に生まれる効果を取り入れることで、魅力的なデッサンにつながったりもする。現在のような便利な材料や道具が無かった4万年前に、既に見事な洞窟壁画が描かれていたことからもわかるように、材料や道具といったものは描く人の創造力に関わるものであり、創意工夫次第でどのようなものでも材料になり得、また、道具として使用することが可能である。
素描に関係する用語について
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