役割の歴史的変化

デッサンは、はるか太古に人間が地面に一本の線を引き、そこに何らかの感情を抱いたことに始まるとも言える。一般的には、人間が絵画を描き始めたのは旧石器時代の後期で、今から4万年ほど前といわれ、既に紀元前2万年頃〜1万年頃のフランスのラスコーやスペインのアルタミラの壁画では、描かれた牡牛の躍動感や細部の写実的な描写など見事なデッサンの技量が示されている。それらは明らかに熟練した手によるものであり、時間的な継起を伴った技術的蓄積が示されていて、一本の線からしだいに複雑な図形に到達してゆくための人間のながい努力が想起される。
先史岩壁画に使われた顔料は、酸化鉄、酸化マンガン、酸化片岩、カオリン、石灰石 など主として天然の鉱物から得られた。また、黒は木炭から得られたこともある。
古代ギリシャでは、紀元前4世紀からヘレニズム期にかけて壁画やパネル画など多くの絵画が描かれたが、ほとんど現存していない。しかし、陶器画やローマ時代の模写などを通して、紀元前4世紀末には、人間や馬の体を表す際の短縮法や、光と影とによるモデリング(明暗法)が使われ、初歩的な遠近法も研究されていたことがうかがえる。マケドニアで発見された紀元前4世紀後半のマケドニア王墓の壁画には、筆致の自在さ、力強さ、的確なモデリングなどにより、リアルで激しい感情表現がなされていて、17世紀バロックのルーベンスのデッサンを想起させる近代性が見て取れる。また、黒像式や赤像式技法による陶器画は、古代ギリシャにおける美術家の進取性と想像性を感じさせ、尖筆を使っての線刻や、しなやかな絵筆を使っての生き生きと生命感に溢れる人物表現には卓越したデッサン家の姿が伺える。
15、16世紀のルネサンスは、人間と世界との再発見であり、私たちの今日の世界の大部分の基盤ができた時代である。絵画においても、ギリシャ・ローマの遺物などから学んだ写実主義を基に、体系的な遠近法の探求などを通して、生きた人間の眼に映るより現実的な空間を表そうとし、近代につながる写実的な絵画表現の基盤が確立された。
ルネサンス絵画では、色彩とともにデッサンが基本におかれ、線を描くことが基礎とされていた。また、自然の事物から形式や観念を取り出す、精神的創造作用としてのデッサンという考え方が現れたのもこの時代である。ピエロ・デッラ・フランチェスカ、マンテーニャ、ボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエッロ、アルブレヒト・デューラーなど多くの美術家が素晴らしいデッサンを数多く残しているが、特に盛期ルネサンスのレオナルド・ダ・ヴィンチはスフマート(ぼかし)やキアロスクーロ(明暗法)の技法を極め、さらに科学的な観察と芸術的な空想によりデッサンを完成した芸術の域にまで高めた。
ルネサンスの時代には、木炭、パステル、黒石(ブラックコンテ)、チョーク、インク、銀筆(メタル・ポイント)などの描画材がデッサンに使用されていた。
17世紀は自然主義絵画全盛の時代であり、カラヴァッジオ、ルーベンス、ベラスケス、レンブラントなど独自の様式を持った画家が生まれた。彼らはルネサンスの写実主義をさらに推し進め、テネブリスム(明暗画法)を駆使して、観る者の感情に直接訴えかけるような、現実的で迫真的な絵画表現を行った。宮廷画家であったルーベンスは大工房を持ち、多くの優れた画家を助手として使い、多くの絵は彼らとの共同制作によるものであった。大作の制作に先立って、ルーベンスは小型の彩色された下絵(エスキース)を数多く制作したが、それらは色を使ったデッサンといえるものであり、自由闊達な筆遣いによる活き活きとした表現は、後の印象派絵画を思わせるような先駆性を示している。
17〜18世紀に全盛となったアカデミーでは、ギリシャ・ローマの古代を模範としたデッサンが重視された。有名な古代の作品からとった人体像を素描したり、人の身振りも姿勢も古代の規範に従って決められ、プロポーションが重視された。その上で、遠近法、賦彩などが教えられたが、そこでは、物の輪郭、すなわち線による素描が色彩より優位にあって、デッサンは絵画にとって本質的なものであり、色彩はあくまで絵画の補助手段であるとさえみられていた。
19世紀後半の印象派の登場は、それまでのルネサンス的絵画世界の在り方を大きく変えることになり、フォーヴィスム、キュビスム、シュルレアリスムなどを経て抽象絵画に至る、近代絵画の激しい展開の出発点ともなった。それは絵画が遠近法のような外界を写す客観的な方法から、内面の表出や、現実との生きた接触といったことが重視され、より直感的で直截な表現へと比重が移って行くことでもあった。
それまでの絵画は主に工房やアトリエで制作され、構想、スケッチ、下絵(エスキース)、本制作といった工程を経て制作されていた。印象派のころになると、道具や材料が改良され、簡単に持ち運び出来るようになったこともあり、油絵による風景画も直接現場で制作するようになった。「デッサンによる現場での取材→アトリエでの彩色を伴った本制作」といった工程によらず、直感に従って直接キャンバスに絵の具で描くようになったことが絵画の在り方を変える大きな要因ともなった。これは言いかえれば、デッサンの直接性が絵画に取り込まれたことを意味し、以来、人間の直接的行為としてのデッサンの重要性が増すこととなる。
20世紀に入り、無意識や偶然性、触覚性や身体性といったものを重視したシュルレアリスムの影響下に起こった第二次大戦以降の絵画において、描く行為そのものが重要な問題となるにつれて、より無意識的で身体的な行為を示す、線による表現としてのドローイングが注目され、新たなジャンルとしても確立されていく。
古くから日本は、中国大陸や朝鮮半島との関係が深く、あらゆる面でその影響を強く受けてきたが、美術においてもそういった影響を抜きに語ることはできない。むしろ、旺盛な好奇心と知識欲から、新たなものを積極的に受け入れ、更なる創意や洗練を加えながら、独自の表現を産み出していったところにその特質があるとも言える。
7〜10世紀、中国の唐時代に発達した、墨一色の線や、あるいは淡彩を加えて描く白描の技法が、日本では平安時代から大和絵の白絵として行われ、鎌倉時代には繊細で精緻な白描大和絵の絵巻物がつくりだされた。また、12〜13世紀に描かれたとみられる「鳥獣人物戯画」には、近代性を感じさせる活き活きとした見事なデッサンが示されている。
デッサンにあたる言葉として、日本画では主に写生という言葉が古くから使われてきた。また、素描に近い言葉で、ものの形を、墨を使って細い線描で描き表したものを素描き(すがき)というが、彩色の前の行程として、墨一色で形を描くことにも用いられる。江戸時代の狩野派などにおいては、師匠がまず素描きを行った後を、つぎに弟子が師匠の指示に従って彩色をし、最後にまた、師匠が仕上げの加筆をするという、分業制度を採っていた。
18世紀の後半、江戸時代の中頃には、未熟なかたちではあったが、西欧の油絵、ガラス絵、銅版画などの新しい技法や、遠近法、明暗法、陰影法などの表現が一部の先駆的画人たちによって試みられていた。
1876(明治9)年に日本最初の官立の美術学校である、工部美術学校が設立された。そこに絵画担当の外人教師として招かれた、イタリア人の画家であるアーネスト・フォンタネージによって、初めて、西欧の伝統的な古典主義の考え方に基づいたアカデミック教育がなされた。そこでは、複製名画の模写と同時にデッサンが重視され、デッサンという言葉が日本で本格的に使われ始めたのもその頃だと思われる。また、フォンタネージは来日に際し、古今の名画の複製やデッサンのための石膏像、遠近法や解剖学の資料などと同時に、油絵や水彩の絵具、コンテ、木炭、鉛筆、カンヴァス、画用紙といった大量の材料を運び込んだが、当時の日本はまだ、画用紙や絵具のような材料が容易に手に入らない状況であった。
1877(明治10)年を過ぎると、進取の気性に富んだ若い画家の渡欧が始まる。その頃すでに印象派が誕生していたが(1874年第一回印象派展)、まだ社会的には認知されていず、そういった若者もアカデミーを中心とする官展派の画家に学んだ。
その後、明治から大正にかけ、フォビスムやキュビスムなどの新たな潮流が急激に入ってくることになる。
